half boiled



 海堂薫は前髪をかき上げ、自室の鏡に左の額の傷を映して見た。
 六角中との試合でできたその傷は今はほとんど治癒していて、細かいテープで貼り合わせているだけで、もう痛みもない。
 フンと鼻を鳴らして髪を落とすと、翌日の授業科目の教科書を揃えて鞄にしまい、就寝の支度にかかった。
 額の傷は痛みもないし、痕もほとんど残らないだろう。
 しかしその傷は、六角との試合に勝った達成感や次なる試合へのモチベーションを彼にもたらすだけではなく、同時に妙な気分をも喚起する。
 額の傷は、その試合を見に来ていたクラスメイトのを彼に連想させ、そして、そのイメージは彼に甘いような痛いような、言い様のない気分をもたらし、その度彼はどういうわけだか眉間にしわを寄せて不機嫌そうな顔になるのだった。


 教室で、は海堂の斜め前の席だ。彼女は休み時間も自分の席で本を読んでいる事がほとんどだし、海堂もそれほどウロウロする方ではないから否応なしに彼女の存在は目に入る。
 この、自分でもてあますような気分のきっかけはわかっている。
 あの日。
 が隣のクラスの男子生徒に告白をされたのを目撃した時からだ。
 あの時、彼は自分でも驚くような感情の起伏を自覚した。
 自分の事でもないのに、勝手に憤ったり、ほっとしたり、そんな自分が恥ずかしかったり……。
 そして、戸惑いながらもきちんと自分で解決をしてゆくが、不意にとても大人に見えた。特に彼自身が、得体の知れない感情に振り回されてしまった時だから余計に。
 そんなこんなで、海堂は彼女と話すのが比較的好きだったはずなのに、このところどうにも彼女を見ると落ち着かないのだ。

「このデータは分析の際、この変数を軸にして回転をかけて欲しいんだ。あと、こっちは主成分分析にかけてもらえるかな」

 ぼうっとしていた海堂の耳に突然聞きなれた声が飛び込んできて、ハッと顔を上げる。
 なんと彼の教室に乾が来ていたのだった。
 海堂は目を丸くして乾を見るが、彼が話しかけているのは海堂ではなく、斜め前のにだった。
「エクセルファイルで入ってるけど、そのまま使える?」
「ええ、エクセルファイルだったらSPSSで読み込めるから大丈夫です」
 乾は何やら、ノートに書き込みながら熱心にに説明をしていた。
「……乾先輩、何やってんスか、こんなとこまで来て!」
 彼は驚いて声を上げる。
「ああ、海堂。ちょっとさんに頼みたい事があってね。ちょうどお前にも用事があったし、同じクラスだったなと思って」
 乾はUSBメモリーを手でもてあそびながら、いつものように柔らかく微笑んで言った。
 怪訝そうに見つめる海堂の気持ちを察したかのように、彼は説明をした。
「分析したいデータがあるんだけど、エクセルやフリーソフトではなかなか詳細な多変量解析なんかができなくてね。彼女の自宅には親御さんの仕事の関係で、SPSSっていうちょっと便利なデータ解析ソフトがあるそうなんで、データを渡して解析をお願いする事にしたんだ」
 そう言うと、また海堂にはさっぱり何の事やらわからない言葉を使って、に説明を始めた。
「……わかりました、じゃあこのメモリー預かりますね」
 は自分のノートにメモを取った後、メモリーをバッグにしまった。
「ありがとう、助かるよ」
 乾は彼女に礼を言うと、海堂の方に振り返った。
「そうそう、海堂にはこれ」
 言って、彼にメモを渡す。
「練習メニューをちょっと変えてあるから、見ておいて。確認して、何か不満があったらまた俺に聞いてくれるか」
「……帰りの部活の時にでも言ってくれりゃいいじゃないスか」
「今日は雨になりそうだからな。じゃあ」
 乾はそう言ってまた笑うと、彼らに手を上げて廊下に向かった。
「あ、乾さん」
 が彼を呼び止めた。
「主成分分析でどの程度まで縮約するか迷ったら、ご連絡しても良いですか?」
「ああ、ありがたい。俺は遅くまで起きてる方だから、いつでも電話してくれてかまわないよ。面倒な事頼んで悪いね」
 乾がそう言って出てゆくと、はくすっと笑って海堂を見た。
「……ほんと、いつも忙しい人ね?」
「まったくだ。けど……何か……も、難しい事やってんだな」
 は笑ったまま首を振る。
「ううん、私は乾さんに言われたとおりデータを読み込んで、ソフトを操作するだけ。そんなに難しい事じゃないのよ」
 決して『難しい事ではない』とは思えない彼は、ふうっとため息をついて乾から渡されたメモに目を落とした。
 そして、ふと、乾がに言った言葉が甦る。
『いつでも電話してくれてかまわないよ』
 乾とは、互いの携帯やメールアドレスなど当然知っているのだろう。
 図書委員の彼女に、乾はいつも様々な専門的なレファレンスを頼んでいるから、それは決して不自然な事ではない。必然の事だ。
 けれどその事実は、彼女の携帯もアドレスも何も知らない海堂にとって、二人がまるで手の届かないような大人のつきあいをしているように見えて、このところ彼が感じている居心地の悪い「妙な気分」に拍車をかけるのだった。


 午後の授業が終わると、乾の言う通り雨が降ってきた。
 今日は部活はなしだ。
 が、海堂は乾が渡してくれた新しい練習メニューに対応するため、追加のパワーリストを取りに部室に向かった。
 部室へ行くと、鍵が開いている。
 中では乾が一人、ノートを片手にぶつぶつ言っているところだった。
「……乾先輩、何してるんスか?」
「ああ、海堂。パワーリストが全員分足りてるか、確認に来たんだ。ほら、お前の追加の分」
 言って笑うと、海堂にパワーリストを放ってよこした。
 そうだ、乾はこうやって、人の見ていないところでさりげなく皆を支える事をやっている。まったく、かなわないなと、海堂はため息をついた。
「手伝いますよ」
 彼もしゃがんで、箱の中の道具を整理し始めた。
「……乾先輩て、ホント、時間がどれだけあっても足りねんじゃないスか」
「そうだなあ。まあ、でも、忙しいのは嫌いじゃないからね」
 乾はあいかわらずの笑顔で答える。
「……そうそう、さんは……」
 突然彼の口から出た名前に、海堂はドキリとした。
「クラスではどう? やっぱり男からモテる方?」
 乾は何気ない風に尋ねてくる。
「……さあ、知らないっス、そんな事」
 海堂はパワーリストにウェイトをセットしながらぶっきらぼうに答える。
「そうか。三年の中では結構人気あるらしいぞ。図書館で見かけて、いいなと思う奴が多いらしい」
「……そうっスか」
「同じクラスの奴が、今度彼女に声をかけてみる、とか言っていた」
「……そうっスか。……なんでいちいち俺にそんな事言うんだ、先輩?」
 作業をしながら、睨みつけるように言う海堂を、乾は穏やかな顔でしばし見つめた後、口を開いた。
「俺ね、さんと付き合う事にしたんだ」
 普段どおりの口調で言う彼の言葉を聞いて、海堂は作業の手を止めた。
 眼鏡で表情の読めない乾を、じっと見つめた。
 多分、今の自分の目つきは、世話になっている先輩に向けるようなものではないだろうと、自分でも分かるけれどどうしようもなかった。
「……なんてね、嘘だよ」
「なっ……」
 思わず怒鳴りそうになる自分を抑えた。
「お前さ、今自分がどんな顔してたか、知りたくない?」
 乾はそんな彼に構わず、穏やかに笑ったまま言う。
「……不機嫌そうなのは地顔スから」
 乾はそれ以上何も言わず、二人は黙々と作業をした。
「ああそうだ、海堂、今、携帯持ってる?」
「はあ、持ってますけど……」
「悪いんだけどさ、ちょっとメールを打ってもらえるかな。俺、教室に鞄置いてきちゃってて」
「いいっスけど、誰にですか。手塚先輩ですか?」
「いや、さんにだよ。アドレス言うから頼むよ」
「はあ? に? 今っスか?」
 乾はお構いなしにアドレスを口にするので、海堂はあわてて携帯を取り出した。
「で、何て打てばいいんですか」
「SPSSのバージョンはいくつかって、聞いてくれ」
「はあ」
 海堂は言われた通りの文面をつくり、乾に頼まれて代筆している旨を沿え、メールを送信した。
 そしてしばらく二人で作業をしていると、メールの返信があった。
『最新のものにバージョンアップ済です』
 と端的な返信。
 それを乾に見せると、満足げにうなずいた。
「うん、だったらSPSSで保存したデータもエクセルで読めるな」
 乾は丁寧にパワーリストをしまった箱の蓋を閉めると、立ち上がって伸びをする。
「ありがとう、海堂。助かったよ」
 海堂も立ち上がって、鞄を手に持った。
「……乾先輩、なんで俺にの事、とやかく言うんですか。俺……関係ないのに、そういうからかわれるみいなの、好きじゃないんスよ」
 海堂は不機嫌そうに乾を睨みながら言った。
 乾は自分用に確保したパワーリストを腕にはめて、くいくいと手首を動かしながら海堂を見る。
「なんでって言われると、そうだなあ……。お前、二年になってさんから本を借りるようになってから、格段にトレーニング効果とか良い感じに出てきてると思うんだよね」
「はあ……」
「で、俺の想像なんだけど、多分さんをいいと思ってる奴って結構いると思うんだよね」
「はあ……」
「それでさ、もしさんが誰かとつきあうようになったとしたら、お前、折角良い感じに仕上がって来てるのに、ふてくされて闇雲にトレーニングしてオーバーワークになってしまったりしないかと、思ったりしてさ」
「俺は、別にそんな事でふてくされたりなんか!」
「さっき俺がさんとつきあうって言った時の自分の顔、考えてみろよ」
 乾は眼鏡を光らせながら、真剣な顔で海堂を見た。
 その真面目な表情が意外で、海堂は言葉を失った。
「……まあ、そういう事だ。すまない、余計な事だったな、もう言わないよ。今日は雨だ。ゆっくり休んで、明日からのトレーニングに備えてくれ」
 またいつもの穏やかな笑顔に戻った乾は、ポンと彼の肩をたたくと、部室を出て行った。
 乾が出て行って一人になった部室で、海堂は椅子に座り、パワーリストを装着した。
 乾の言葉が頭の中を駆け巡った。
 とつきあうと聞いて思わず乾を睨みつけてしまった時の自分の気持ち、そして先日、隣のクラスの男から告白されているを見た時の気持ち。
 それらが甦る。
 逃げても、どこかへ追いやろうとしても、どうしても自分の中から消えない、モヤモヤとした気持ちだった。
 外は雨。
 雨音を聞きながら、彼はしばらく一人、座っていた。
 そしてふと、ポケットにしまった携帯電話を取り出す。
 メールの履歴には、さっき乾に言われて打ったのアドレスが残っている。
 しばらく考えてから、そのアドレスに宛てて、彼は短いメールを打った。『まだ学校にいるのか』と。
 間もなくして、『図書館にいます』とこれまた短い返信。
『よかったら帰る時に連絡してくれ』と返すと、『もう帰るところ』とすぐに返事が来た。
 彼は部室を出て、傘を差して図書館に向かって歩いた。
 図書館の入り口で立っていると、すぐにが出てきてアイボリーの傘を差して歩いてきた。
「今日は部活はないの?」
「雨だからな」
 彼はそう答えて、歩き出した。
 は何も言わず、それに倣う。
 二人は黙って歩く。
 海堂は深呼吸をした。
 彼女と二人でいると、不思議と、あのざわついたモヤモヤした気持ちから解放されるのだ。
 試合の後バス停のベンチで二人バスを待っていた時の、ずっとそのままでいたいような気持ちが、甦る。
 それでも今日は。
 彼女に言わなければならない事がある。
 考えながら、黙って歩いていると公園の前にさしかかった。
 ここを通り過ぎると、彼女の家はもうすぐだ。
 海堂は公園で足を止めた。
 気づけば、学校を出てからここまで一言もしゃべらないまま。
 も別に何も言わない。
 彼女といると、何もしゃべらなかったとしても、決して気まずい雰囲気にはならないのだ。
 海堂は立ち止まったまま、大きく何度も深呼吸をした。
「この前、が……山崎だっけ、隣のクラスの奴。があいつといるのを見た時……俺はかなり、不機嫌だった」
 ぼそぼそと話し出す彼を、は、うん? と不思議そうな顔をして見上げた。
「……告白されたのを断ったって聞いて、ほっとした」
 そう続ける彼を、はじっと見つめ続けた。
「……山崎がどうこうって言うんじゃねぇけど……俺は多分、が……誰かとつきあうようになるのが、嫌なんだと思う」
 海堂は、すでに癒えているはずの額の傷が、いつかのようにドクドクと拍動するような気がした。自分がどんな顔をしているのかわからないけれど、とにかくの目をじっと見据えた。
「けど……だからといって、に、誰ともつきあうなと言うのは俺の勝手な言い分になっちまうし、俺は……どうしたらいいか、わからねぇ。この前に、えらそうに、『自分で考えろよ』なんて言っておきながら、みっともねぇんだが」
 ゆっくりと低い声でつぶやくように言う彼を、はじっと見て、そして傘をさしたまま黙ってうつむいた。
 雨は時折その雨脚を弱めるが、止む気配はなく降り続ける。
 いつもはまだ小さな子供が遊んでいる時間の公園も、この雨では人気がない。
 二人の間には、雨の音と、車が道路の水を撥ねる音だけが響く。
 この沈黙は、さすがに海堂に重くのしかかり、うつむきながら、じっとりと汗が流れるのを感じた。
「……どうしたらいいかって……私なりの意見があるとしたら……」
 は小さな声を発する。海堂はハッと彼女を見るけれど、傘で表情は見えない。
「……だったら……海堂くんが私とつきあったらいいんじゃないかと思う」
 はそう言って、かすかに傘を持ち上げ彼を見上げた。
 その恥ずかしそうな、戸惑ったような顔を見て、海堂は自分の顔が熱くなるのを感じた。
「……っ、俺は……」
 傘を持っていない方の手で、頭をぐしゃぐしゃと掻きむしる。
「……自分に自信のない方じゃねぇけど……なんて言うか……」
 少し間をおいて、自分の頭の中を整理する。
 自分の頭の中で考えていた事と、の言葉が、嵐のようにぐるぐると回る。
を見てると、はしっかりしてるし大人だし、俺じゃかなわねぇような気がして……俺なんかでいいのか、と思っちまう」
 彼がそう言うと、は目を丸くしてじっと彼を見上げた。
 海堂は自分の言葉の陳腐さに、思わず眉間にしわをよせ、うつむいてしまった。
「その……今も、に……そんな事を言わせちまって……。俺はダメだな……クソッ……」
 うつむいたままつぶやいた。
「海堂くん」
 は静かに彼の名を呼ぶ。
「私、そんなにしっかりしてない。この前も、山崎くんに好きだって言われて、ものすごく動揺して、海堂くんに頼ろうとしちゃったじゃない。今だって……海堂くんがここまで言ってくれたから……私も言えたの」
 は少し震えた声で言った。
 雨音を聞きながら、海堂はじっと彼女を見る。彼を見上げるために上げた傘から雨が降り込んで、彼女の前髪を濡らしていた。海堂は不器用に、チョイチョイと手招きするような振りをした。は少し口元をほころばせ、自分のアイボリーの傘を閉じると、すっと彼の傘に入ってきた。海堂の傘を持つ手に、かすかに彼女の髪が触れ、くすぐったい。
 二人は黙ったまま、ゆっくりと歩き出す。
「……ねえ、海堂くん」
「ああ?」
「電話番号、教えてもらっても良い?」
「ああ、勿論」
「用事がなくても、時々電話しても良い?」
「ああ……」
 彼の掲げた傘の下で嬉しそうに言うの声を聞きながら、海堂は生まれて初めて、明日も雨だったら良いのにと思った。


(了)

2007.4.21




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